
こちらの写真は、まんぷくヨガの風景です。
だいぶ前になりますが、生徒さんが撮影してくれました。
背後の掛け軸の文字、読めますか?
「廓然無聖(かくねんむしょう)」
有名な禅の言葉です。
今回は「廓然無聖」の解説を、私なりの理解を加えて書きます。
主にまんぷくヨガの生徒さん向けの内容です。
普段レッスン中に何気なく見ている床の間の掛け軸。
その意味を知ることが、ヨガや日々の生活の助けになってくれると思います。
目次
「廓然無聖(かくねんむしょう)」を知る
【語訳】
- 廓然‥雲一つない、カラリと晴れ渡る空の様に心の中に何のわだかまりもない様
- 無聖‥捨てるべき凡も求めるべき聖もない
直訳すると「悟りの境地においては聖者と凡人の差はない」
台風一過の青い空のように爽やかに晴れ渡る心の境地には、汚れた煩悩や迷いは無い、そればかりか尊い悟りさえ無い。
つまりはどういった真理・教訓なのか?
上記の説明だけで理解するのは難しいと思うので、ここからもう少し深掘りさせて下さい。
廓然無聖は達磨(だるま)大師の言葉です。
達磨大師はインドから中国に渡った仏教僧で、禅宗を開いた人物。
その教えは日本にも伝わり、禅宗の基礎となっています。
【読解】
「廓然=カラリと晴れ渡り、雲一つない澄み切った空模様」とは、
「悟りの境地」を指しています。
仏教の坐禅は最終的に「悟り」を目指して行いますが、実はヨガにおいてもその目的は同じです。
悟り(サマディ)を目指して練習(坐禅を含むポーズ)や呼吸法・日々の行いを積み重ることを、総じてヨガと言います。
廓然とはつまり、私たちが最終的に目指すべき心模様を表しているのです。
「無聖=凡も聖も無い」
汚れた煩悩も尊い悟りもどちらも無い。つまりは「何もない」ということです。
私欲の為でも、誰かの為でも、悟りを開く為でもない、
『無心でただひたすらにやるべきことをやるだけ』
私はこれがこの言葉の核心だと思います。
調べると解釈については様々あり、色々な捉え方ができると思うのですが、
今自分の心にスッと入ってきたのは
「目の前のことに無心で集中せよ」というメッセージでした。
【寺ヨガの意味】
“ただ自分の行いに集中する無心の姿”と言われ、私は自然を思い浮かべます。
春の鳥の声・夏の蝉の鳴き声・秋の虫の音
自然の中に身をおいて生き物の息吹を感じる
ただそれだけで心洗われ、癒やされる感覚ってありませんか?
全力で自分の命を全うする生き物の姿に、大切なことを教えられているような気持ちになるのです。
ヨガ哲学にも「アパリグラハ」という言葉があります。
「執着してはいけない、貪欲になりすぎてはいけない」という意味です。
人間はついあれこれ考え、手に入らないモノについて悩んだりするけれど、
何も考えずただシンプルに目の前のやるべき事をやればいい
禅の教えとヨガの教えは、実は共通している点がたくさんあります。
私は元々仏教とはゆかりが無く、知識ゼロの状態で寺に飛び込みヨガ教室を始めました。
もう3年以上も週2回、何も考えずこの掛け軸の前でレッスンをしてきました。
今回ふとしたきっかけで「廓然無聖」の意味を知り、とても感動しています。

この掛け軸を眺め、
「やるべきことをただ積み重ねればいい」と教えられながらヨガをする。
あらためて、素敵で貴重な体験なんだと思います。
ヨガの時だけでなく、日々の迷いの中で背中を押してくれる励ましの言葉です。
まんぷくヨガに来たらぜひ「廓然無聖」の意味を噛み締めて、心を整えてみて下さい。